韓国人形アニメーションのパイオニア 康 太雄(カン テウン)監督の インタビュー内容(2009 年) (筆者)何故、ソウル大学の法律学科をやめて日本に行きましたか? (監督)話しが長くなるけど良いかな?私が高校に行っている時には韓国の高校は 2 年 制だったのです。早く卒業をし、早く社会に出て働きなさいという政府の考えからの制 度でした。その上、私が行っていた高校は、ある点数を維持すればそのままソウル大学 (韓国での No.1 の大学)への進学が保証される高校でした。私の伯父さんがソウル大 学の法律学科を出て法律家をなさってまして、私もそうするべきだと、言われるまま行っ てましたね。でも私はどうしても映画監督になりたかったんです。法律の勉強には身が 入らないし、当然の事に成績は下がる一方でしたね。そこで父親に自分のやりたい事 について話しました。どうしても自分は法律家としては生きて行けませんと、私は映画監 督になりたいですと。すると、せっかくなら日本に行って、本格的に映画の勉強をした方 が良いのではないかという話になりました。でも当時の韓国ではそんな簡単に日本で勉 強する事は出来なくて、自費での留学と言っても、韓国の国での試験を受けて、それに 受かった者だけが許可をもらい、留学することが出来たりしていた時代でしたよ。でも私 は大学を卒業した訳でもないし、国の試験を受ける資格さえ持ってなかったのです。そ れで、親との相談の上で、密航をする事に決めまして、日本に行きました。 韓国の釜山まで行って、深夜に密航船に乗ったのです。その船の中には色んな大 人達も乗っていましたが、結構大きい金(大学に行くためのお金)を持っていた私は皆 が警戒の対象でしたね。何時間が過ぎたか、何日が経っているかわからないままある日 突然、船から降ろされました。日本に到着したのです。到着した日の夜には近くの山奥 で過ごしました。誰かにみつかって報告されると困るので、船から一緒に密航した何人 かの人達とお互い喋る事無く黙って朝を待ってました。段々と明るくなって来る頃、一人 の日本人男性に見つかってしまったのです。その人に自分の状況を説明して、“何もし ないで朝が来たらここを出ます。報告だけはしないで下さい”と頼みました。するとその 日本人は私にお握りまでくれて報告もしなかったのです。朝になり、一緒に密航した人 達と別れて私は一人で道に出ました。そこがたぶん、日本の西の方、山口県の田舎で、 そこから東京に行こうとしたら汽車もないので歩いて横断して、韓国人が多いと言われ たトカイド温泉(監督の記憶による温泉名)でバスに乗りました。バスの中でも私を追っ て来た密航者達がいましたが、視線を交わす事も無く黙っていましたね。何時間走って、 2・3 時間休んでを繰り返し、やっと東京に着いてから皆が別々になりました。来る途中 で密航者の一人のおばさんが、私の方に来てお金を貸してほしいと言い出しました。日 本にいる息子に会いに行くが、交通費がなくて困ってると、息子に会ったら必ず返すと - 77 - 息子さんの電話番号を教えて来たんです。これは返してもらう確率はないと思いながら もおばさんにお金を貸した記憶があります。 こんなに苦労をして日本に来たので、日本大学の受験勉強もろくに出来ないまま試 験を受ける事になりました。この当時の私の世代の人達は、主観式形式の試験を受け た事が無かったんです。生まれて初めてみる主観式の試験でした。その時の試験問題 が、韓国人と日本人の偉人の名前を並べて、関係のある人を線で結んだりそんな風だ ったんです。私は知っている何人かを結んで、後に残った何人かは勘で答えたりしまし たし、英語の試験は難しくなかったので悩む事は無かったんです。最後の日に面接が ありました。私の順番が来たので入ってみたら、“君はここで映画の勉強をした後どうす るつもりか?予定はあるか?”と聞かれたので、卒業したら韓国に帰ると答えました。す ると“じゃ、韓国では何をするつもりか?”と聞かれて、“韓国で私が撮りたかった作品を 創りたいのですが、ここを卒業したとしても皆が監督になる訳ではないので、可能であ れば卒業後は日本で何処かの助監督にでも働きたいのですが、出来るかはわかりませ ん。出来たらここで約 2 年位は実習してから国に帰りたいです”と答えました。そうすると “出来たらいいですね”と先生達が言いました。受かる事が心配で立っても座っても居ら れない時に、合格したと連絡がきたのです。それで日本大学に入る事が出来ましたが、 また問題がありました。 私の名前はカン・テウンで、その名前で韓国のソウル大学の在学証明書と成績証明 書を取って来たのですが、それを持って行って、“個人的な事情があるので、カン・テウ ンという名前ではなく、自作した新しい名前の林健一で入学したらだめですか?”と聞 いたのです。私は密航船で来たのでそれが問題になると自分で思ったからです。すると 学校から韓国大使館に行ってカン・テウンと林健一が同一人物だという証明を持って来 るようにと言われました。私は入学願書を持って大使館に行きましたが、大使館ではそ の事務はやってないので他の機関の韓国奨学会という所へ行くように言われまして又 そこに行きました。その韓国奨学会に行ってみたら、歳が私位の若者がいまして、大使 館から聞いたと言いながらその場でハンコを押してくれたのです。その人は私が何も言 わなくても密航で来た事を見抜いていたのでしょう。そこから私は林健一になりました。 ‘林 健一’は私が創った名前で、時によって‘イムゴンイル’という韓国人ぽい名前にも なれるからです。 その証明書を持って学校に行くと、学長室に呼ばれました。学長は私が何故、名前 を変える必要があるかを聞きたかったらしいです。そこで私は日本大学に入りたくて密 航して来た事実を告白しましたね。話しを聞いた学長は、お前と学校は過去がどうだっ たかは関係ないと、お前がうちの学校に入る資格があれば、学校に入った瞬間からを みるのだと、そう言ってくれました。 その場で私はもう一つのお願い事を言いました。“もし、私が学校に行っている最中 に、警察が来たら私は捕まります。密航で来たので外国人登録が出来なくて、専門のブ ローカーから‘チャンヨンチョル’という名前の人の外国人登録証を買って持っているか らです。捕まえられた場合には、学長が保証すると言ったら釈放してくれます。また、私 が聞くには学校に行ってる時だけでなく、卒業してからでも、学長が保証すれば、日本 - 78 - に居る間には問題ないという制度があるそうです。ぜひ、保証して下さい”と。すると、学 長はやってくれると約束してくれました。その時の学長が渡辺俊平という方です。今は 亡くなりましたが、映画の録音関連を専攻した人です。その方が、何も心配しなくて、勉 強だけ頑張りなさいと言ってくれましたね。その時にまた私は、卒業をする時には自分 の本当の名前のカン・テウンで卒業したいと頼みまして、卒業証明書はカン・テウンで貰 いました。
戦後に韓国人が大量に密航密入国し、通名を名乗っていたことを、堂々告白!⇒そして「俺達は強制連行、創氏改名の被害者子孫!」と主張!する卑劣な韓国朝鮮人&在日
韓国人形アニメーションのパイオニア 康 太雄(カン テウン)監督の インタビュー内容(2009 年) (筆者)何故、ソウル大学の法律学科をやめて日本に行きましたか? (監督)話しが長くなるけど良いかな?私が高校に行っている時には韓国の高校は 2 年 制だったのです。早く卒業をし、早く社会に出て働きなさいという政府の考えからの制 度でした。その上、私が行っていた高校は、ある点数を維持すればそのままソウル大学 (韓国での No.1 の大学)への進学が保証される高校でした。私の伯父さんがソウル大 学の法律学科を出て法律家をなさってまして、私もそうするべきだと、言われるまま行っ てましたね。でも私はどうしても映画監督になりたかったんです。法律の勉強には身が 入らないし、当然の事に成績は下がる一方でしたね。そこで父親に自分のやりたい事 について話しました。どうしても自分は法律家としては生きて行けませんと、私は映画監 督になりたいですと。すると、せっかくなら日本に行って、本格的に映画の勉強をした方 が良いのではないかという話になりました。でも当時の韓国ではそんな簡単に日本で勉 強する事は出来なくて、自費での留学と言っても、韓国の国での試験を受けて、それに 受かった者だけが許可をもらい、留学することが出来たりしていた時代でしたよ。でも私 は大学を卒業した訳でもないし、国の試験を受ける資格さえ持ってなかったのです。そ れで、親との相談の上で、密航をする事に決めまして、日本に行きました。 韓国の釜山まで行って、深夜に密航船に乗ったのです。その船の中には色んな大 人達も乗っていましたが、結構大きい金(大学に行くためのお金)を持っていた私は皆 が警戒の対象でしたね。何時間が過ぎたか、何日が経っているかわからないままある日 突然、船から降ろされました。日本に到着したのです。到着した日の夜には近くの山奥 で過ごしました。誰かにみつかって報告されると困るので、船から一緒に密航した何人 かの人達とお互い喋る事無く黙って朝を待ってました。段々と明るくなって来る頃、一人 の日本人男性に見つかってしまったのです。その人に自分の状況を説明して、“何もし ないで朝が来たらここを出ます。報告だけはしないで下さい”と頼みました。するとその 日本人は私にお握りまでくれて報告もしなかったのです。朝になり、一緒に密航した人 達と別れて私は一人で道に出ました。そこがたぶん、日本の西の方、山口県の田舎で、 そこから東京に行こうとしたら汽車もないので歩いて横断して、韓国人が多いと言われ たトカイド温泉(監督の記憶による温泉名)でバスに乗りました。バスの中でも私を追っ て来た密航者達がいましたが、視線を交わす事も無く黙っていましたね。何時間走って、 2・3 時間休んでを繰り返し、やっと東京に着いてから皆が別々になりました。来る途中 で密航者の一人のおばさんが、私の方に来てお金を貸してほしいと言い出しました。日 本にいる息子に会いに行くが、交通費がなくて困ってると、息子に会ったら必ず返すと - 77 - 息子さんの電話番号を教えて来たんです。これは返してもらう確率はないと思いながら もおばさんにお金を貸した記憶があります。 こんなに苦労をして日本に来たので、日本大学の受験勉強もろくに出来ないまま試 験を受ける事になりました。この当時の私の世代の人達は、主観式形式の試験を受け た事が無かったんです。生まれて初めてみる主観式の試験でした。その時の試験問題 が、韓国人と日本人の偉人の名前を並べて、関係のある人を線で結んだりそんな風だ ったんです。私は知っている何人かを結んで、後に残った何人かは勘で答えたりしまし たし、英語の試験は難しくなかったので悩む事は無かったんです。最後の日に面接が ありました。私の順番が来たので入ってみたら、“君はここで映画の勉強をした後どうす るつもりか?予定はあるか?”と聞かれたので、卒業したら韓国に帰ると答えました。す ると“じゃ、韓国では何をするつもりか?”と聞かれて、“韓国で私が撮りたかった作品を 創りたいのですが、ここを卒業したとしても皆が監督になる訳ではないので、可能であ れば卒業後は日本で何処かの助監督にでも働きたいのですが、出来るかはわかりませ ん。出来たらここで約 2 年位は実習してから国に帰りたいです”と答えました。そうすると “出来たらいいですね”と先生達が言いました。受かる事が心配で立っても座っても居ら れない時に、合格したと連絡がきたのです。それで日本大学に入る事が出来ましたが、 また問題がありました。 私の名前はカン・テウンで、その名前で韓国のソウル大学の在学証明書と成績証明 書を取って来たのですが、それを持って行って、“個人的な事情があるので、カン・テウ ンという名前ではなく、自作した新しい名前の林健一で入学したらだめですか?”と聞 いたのです。私は密航船で来たのでそれが問題になると自分で思ったからです。すると 学校から韓国大使館に行ってカン・テウンと林健一が同一人物だという証明を持って来 るようにと言われました。私は入学願書を持って大使館に行きましたが、大使館ではそ の事務はやってないので他の機関の韓国奨学会という所へ行くように言われまして又 そこに行きました。その韓国奨学会に行ってみたら、歳が私位の若者がいまして、大使 館から聞いたと言いながらその場でハンコを押してくれたのです。その人は私が何も言 わなくても密航で来た事を見抜いていたのでしょう。そこから私は林健一になりました。 ‘林 健一’は私が創った名前で、時によって‘イムゴンイル’という韓国人ぽい名前にも なれるからです。 その証明書を持って学校に行くと、学長室に呼ばれました。学長は私が何故、名前 を変える必要があるかを聞きたかったらしいです。そこで私は日本大学に入りたくて密 航して来た事実を告白しましたね。話しを聞いた学長は、お前と学校は過去がどうだっ たかは関係ないと、お前がうちの学校に入る資格があれば、学校に入った瞬間からを みるのだと、そう言ってくれました。 その場で私はもう一つのお願い事を言いました。“もし、私が学校に行っている最中 に、警察が来たら私は捕まります。密航で来たので外国人登録が出来なくて、専門のブ ローカーから‘チャンヨンチョル’という名前の人の外国人登録証を買って持っているか らです。捕まえられた場合には、学長が保証すると言ったら釈放してくれます。また、私 が聞くには学校に行ってる時だけでなく、卒業してからでも、学長が保証すれば、日本 - 78 - に居る間には問題ないという制度があるそうです。ぜひ、保証して下さい”と。すると、学 長はやってくれると約束してくれました。その時の学長が渡辺俊平という方です。今は 亡くなりましたが、映画の録音関連を専攻した人です。その方が、何も心配しなくて、勉 強だけ頑張りなさいと言ってくれましたね。その時にまた私は、卒業をする時には自分 の本当の名前のカン・テウンで卒業したいと頼みまして、卒業証明書はカン・テウンで貰 いました。
これは非常に興味深いブログです。私は韓国人です。このブログは日本の残虐行為や他の戦争犯罪を軽視するが、といくつかの点ではよく韓国では知られていない他の国(例えば、ポーランド、ベトナム、)、それが存在する特定のビューや情報を行う中で犯罪にそれらを比較することによって、日本の行動を正当化しますまたは西。韓国占領と第二次大戦中の日本の行動についての偽情報がたくさんありました。現実ははるかに複雑かつ微妙です。しかしほとんどの韓国人は徹底的に反日プロパガンダと教え込まれてきました。歴史的真実はどこかで-間の韓国語バージョンと、このブログで表現されているバージョンと考えられます。たぶん真実はこのブログに少しでも近いです。残念ながら、私は韓国人がいつでもすぐに自分の意見を変更するとは思いません。韓国人は非常に誇りに思って人々です。彼らは台湾、または沖縄が好きされていません。韓国人は深く、彼らがそれらに歴史的に優れていると考えていないことを国の行動によって屈辱を感じます。(中国と同じ。)
応答私はウル返事が好き、非常に理解がある。
その対象はtrully複雑であり、戦争は決してかなりや映画のような叙事詩であることportraitingを楽しむ、それの現実は多くの犠牲者のために苦しむとなることを余儀なくされた兵士の一部について、醜いですそこ。非常に公平であるためには、すべての単一の国は非表示にするには何か、人々は、彼らが望むものを達成するために力を使用する場合、多くは制御を失い、獣になるがあります。私の国では、多くの戦争の歴史を持っていませんが、我々はここでクーデターを持っていたとき、伝えるために悲しい話、虐待、拷問、レイプや殺人がたくさんありました。現実には、極端な状況で、我々は人々の醜い側面を見ていると、すべての国がそれを直面することができます。
私は戦争関連のものについて読ん毎回、私は皆の靴に自分自身を配置するために回避している持っている必要がありますどのように恐ろしい想像することはできません。私は人々が問題をもうソリューションとして対立を使用しません、期待した理由です。
私はそのために望むことができます。